詩人キム・ソヨン「一文字の辞典」

今日も13時からお店を開ける。

16時からオンラインでの韓国語レッスンがひとつ。もともとは対面レッスンをしていた方なのだけれど、コロナ感染拡大のため、緊急事態宣言が解除され、デルタ株がある程度収まるまではオンラインレッスンに切り替えとなった。何度かオンラインに切り替えながらも、レッスンは続けてくれている。もともとの知り合いではなく、HPのお知らせを見て来てくださった方なので、そんな方がコロナ禍の悪条件の中、続けてくださっているのは本当にありがたい。

1時間半のレッスンを終えて、店を閉めると、郵便が届いていた。

ついに!

2年前の10月に始まった翻訳ワークショップ。そこで姜信子先生と8人の仲間で訳した本が、ついに刊行となり、今日その本がうちに届いたのだ!詩人キム・ソヨン 一文字の辞典 | CUON | 韓国語圏の知を日本語圏でもwww.cuon.jp

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まず表紙、タイトル文字のインクの色がとてもよかった。デビルブラックというらしいのだけれど、文字がくっきりと浮きあがって見えた。

そして、まずは自分の担当した文字のところを見る。1人で請け負ったところは「ㅇ」で、さっそくページを開く。ページを開いてみて、当たり前のことなのだが、韓国語がないことに気づく。そう。もう韓国語はない。何度もそこにあった韓国語を読んでにらめっこしたり、あっちからこっちからも読んでみたり、先生や仲間たちに相談しながら読んできた韓国語はもうどこにもなくて、そこにはきれいに印刷された日本語だけが載っている。

そう、原書の韓国語はなくて、訳した言葉だけが本になっていて、この本を手に取る人にとっては、この訳語がすべてなのだ。はたとそれに気づいた時に、本当にページをめくる手が震えた。これでよかったのか、ニュアンスは汲み取れているのか…そんなことを考えながら訳した言葉の中に、原書の韓国語が、たくさん考えて、先生とやり取りしたその光景が浮かびあがる。

自分のところを読み終えた後は、最初から読んでいく。その時にはもう、いつもの、本を読む気持ちになっていて、ストレートに日本語が頭の中に入ってくる。

翻訳するのは大変だと思うこともたくさんあったけれど、先生もいたし、一緒に切磋琢磨する仲間もいたので、楽しかった。ただ、こうして完全なる日本語に生まれ変わった「一文字の辞典」を見て、本当にしっかりとやらないと大変な仕事だということも実感した。訳語一つ間違えれば全然違う伝わり方をしてしまうから。

それでも、こうして翻訳されたことで、この本は韓国語がわからない日本の人たちにも読んでもらうことができる。これからこの本を手にした人たちは、自分の翻訳を信じて、この本を読んでくれる。そのことが純粋にうれしい。

あとがきにはそれぞれの「一文字辞典」の最初の一語として、私たち翻訳委員会のそれぞれの一文字も載っている。私の一文字も、もちろん。

初めての、(これが最初で最後かもしれない)翻訳がこの本で、この形でできて、本当によかったとしみじみそう思っている。

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砂漠の教室

「塩を食うおんなたち」「ブルースだってただの唄」と読み続けてきて、「水牛の本棚」に掲載されていた「砂漠の教室」を読んだ。

上記2冊の本も、心に残るところはたくさんあったのだけれど、「砂漠の教室」はそれ以上に、心に残った。藤本さんがこれを書いた年から43年がたった今でも、日本はあいかわらずそのままの日本で、異質のものはすべて同化させることを信条として成り立っているように見え、私自身も無頓着にその貧しさの中にいるような気がした。

藤本さんがイスラエルの地に降り立ち、ヘブライ語を学びながらいろいろな人に会い、町で暮らし、その暮らし方に驚いたり感心したりしながら過ごすさまを読むのは、私が台湾や韓国に降り立った時に感じたことに似ていて、初めて嘉義に降り立った時、ソウルに着いた時を思い出したり、自分もその地に降り立ったような気持ちになった。それで、あまりよく知らないイスラエルという異国の地の旅行記を楽しむように読んだ。

しかし読み進めていくうちに、アメリカ生まれのユダヤ人の夫とアメリカで暮らす藤本さんが、イスラエルの地に降り立つ意味が少しずつ見えてくる。イスラエルの成り立ち、聖書、ユダヤ人。アメリカとは異なる世界の広がりをどうとらえるか。

そして最後の「なぜヘブライ語だったのか」

「ユダヤ人を異族たらしめているのは、偏見でも差別でもなく、彼らの歴史と思想である。ユダヤ人とは彼らの負のアイデンティティのことをいうのではなく、正のそれをいうのである。ユダヤ人はかしこいとか、普遍的な兄弟愛がゆたかだとか、そんな真空的な評価を指すのではない。彼らがその異族性を歴史の文脈において支えてきた、そのプロセスそのものを指すのである。「離散」が彼らのアイデンティティではなく、「離散」における生の軌跡が、その創造が、彼らのアイデンティティである。
 そのことは、わたしたち日本人の他者に対する関係の結びかたと密接につながっている。アジアを凌辱することでしか関係をもつことのできなかったわたしたちが、アジアの民族がたどらされた負の歴史で彼らを計ることはあまりにも容易な罠としてある。朝鮮のことも、沖縄のことも、彼らの固有性を蹂躙された歴史がうんだひずみとして考えてしまうのだ。ふたたびあやまちを犯さぬためにといいつつ、他者をこちらの思弁の材料にしてしまう。差別がなくなれば、日本列島の在日朝鮮人問題はなくなり、すると朝鮮人もいなくなる、というようなサルトル流の奇怪な論理に乗って平気でいることのできる素質を、わたしたちは充分にそなえていると思うのだ。他者とのまじわりといえば同化しか思い浮かばない貧しさを、どこかでうち破りたいのだ。天皇を頂点としうるところの同族意識をひそませつつ在ることのできるわたしたちは、その延長として、没民族的な万国普遍のイデオロギーもらくらくと手にすることができる。いつまでたっても、わたしたちは他者にその正当なる顔を認めることを潔しとせず、わたしたちの具象の、抽象の両世界を、他者の見えない顔の上に塗りつけ重ねていることになる。
 ヨーロッパ文明と一まとめにして呼ばれているものの中に異族の確固たる、べつの流れがあることを認めたとき、わたしの中には、それまで西洋のものとして受け取ってきたさまざまな思想に、それぞれ正当な歴史の場を返してやらなければならない必要が生まれた。一度、じぶんが馴れ馴れしくしてきたものから身を引き離さなければならないと感じた。引き離すナイフはヘブライ語であると、わたしのあまり頼りにならない直観がいった。」

長すぎる引用になってしまったけれど、この章を読んだ時に、ハッとした。「塩を食う女たち」「ブルースだってただの唄」にも流れていたものが、ここにもある。そしてそれは日本にも、自分の身にも刺さってくることだった。

「わたしは、たとえば、朝鮮語を学ぶべきだと、頭では知っている。けれども、それはおそろしいことだ。学んだところで、いまのわたしになにができるのか。わたしたちのような歴史を背負うものが学びうるのか。学ぶことが、その言語を母国語とする相手を傷つけることにならないという保証があるのか。」

わたしは背景を知りながら、そのことには無頓着に日本で、台湾で、韓国で、直接法で(日本語だけで)日本語を教えた。台湾語も韓国語も習わないまま。それは無神経なことだった。そこで生活するうちに、家族となるうちに異なることを異なるまま愛する良さを知った。それを教えてくれたのは、韓国の家族であり、自分の夫であり、今の家族の暮らしだ。反面今の日本の変わらなさ、気づかなさに悲しくなることも多いし、どうしたらいいのかわからなくなることも多い。特に2018年あたりからのヘイト本、日本会議、DHCなどの言動には怒りも覚えたし、怖くなった。この流れは過去のアジアの国々に対してだけではない、女たちにも、福島にも、沖縄にも、海外からの留学生、技術研修生たちにも同じ仕打ちをしているように思う。

この本は「水牛の本棚」で公開されていて、読めるので、ぜひたくさんの人に読まれてほしい。砂漠の教室 砂漠の教室 Isuigyu.com

ブルースだってただの唄 感想2

ブルースだってただの唄1 の続き。なかなかまとめて書けず、2日に渡って書くことに。

黒人たちが最初にアメリカ大陸に渡ってきた20人の黒人は奴隷ではなかった。けれど白人たちは「けったいな人たちだな。自分たちとだいぶ違うんだな」と思っただけでは済まず、その違いを蔑んで、彼らを奴隷にした。彼らの世界ではなく、アメリカ社会に同化すること、同化する=成功することだと教育した。

「この社会で、この社会のルールによって成功することが、歴史の迷い子になることを意味するなら、そんな成功に価値があるかどうか。」

「大学を卒業して、就職して、わあ、これでわたしも成功者だと考えたりしたけれど、ちっともいい気持ちになれなかった。この数年、生活の質ということを考えている。質は同化の中にはないと思う。主流社会のよろこびそうなことが大切なのか、自分が全面的に自分であることが大切なのか?同化の中に答えはないと思うのよ。」

これは、日本に暮らすアイヌや沖縄、在日コリアンの人たちに重なる部分があるようにも思う。

そして女性たちにも。男たちのルールによって成功しても、そこで生きても、彼女たちは言葉を持てない。「わたしの中の牢獄を追い出す」ことができない。

どうすればいいのか。「ブルースだってただの唄」嘆いても仕方ない。自分の歴史を自分の言葉で、そのまま語ればよい。「わたしたちはわたしたち自身のもので違う唄だってうたえる。ちがう唄うたってよみがえる」

100歳以上も生きた女性の聞き書きに「父は強い人でなかったので死んでしまいました」とある。あまりにもあっさりと書いてあって、その分とても印象に残ったのだけど、父は生き延びることができず、そしてその女性を含めた子どもたちは祖母が引き取って育てられた。

「フードストリート」を見ている時もつくづく思ったが、屋台を切り盛りしながら子どもを育てているのは、ほとんど女性たちだった。

その強さの源を語る言葉を持たないが、生き延びて、いのちをつなげていく中で培われているものが、彼女たちにはある。きっとわたしにもあるはず。

そう思って、少し心強くなった本だった。斎藤真理子さんの解説がまたすばらしかった。

この記事も良かった。斎藤真理子×八巻美恵 『ブルースだってただの唄』を今読む意味翻訳家・斎藤真理子と編集者・八巻美恵が対談。藤本和子の1980年代の名著が復刊www.cinra.net

※残席1 漫画『生理ちゃん』を語り合う読書会

のんびりしていたら、開催1週間前に迫っておりました、漫画『生理ちゃん』の読書会

詳しい内容はファシリテーター舟之川聖子さんが書いてくれたお申込みURLに詳しく載っているので、リンク貼っておきます。

漫画『生理ちゃん』を語り合う読書会

https://seirichan.peatix.com/

あっという間に残席1になってしまったこの読書会。興味を持ってくださった方も多く、『生理ちゃん』すごい!と思いました。

『生理ちゃん』と言えば、少し前、マールには珍しくスーツ姿で会社員風の若い男の人2人が、ふらりと店内に入ってきてくれたのですが、その2人がお店にある『生理ちゃん』を見て、「あ!これオモコロのだ!」と話していたのも印象的でした。映画も公開されたし、人気ものですね、生理ちゃん。

そしていまさらですが、読書会のチラシを作りました。ふと、表紙を手書きで書いてみよう!と思って書いてみたら、さらさらっと書けて、楽しかったです(^^)

そして色鉛筆で色塗ったりしてるうちに、自分のも書いてみよう!と思って、チラシに載せました。私の生理ちゃんはちょっと違うのです。みんなそれぞれ違うみたいに。

このチラシを豪徳寺商店街のお店に、置いてもらおうと思います。残席1ですが😅

みなさん置いてくれるかな?

来週が楽しみです(^^)

「アーモンド」ソン・ウォンピョン 

プロローグ

僕にはアーモンドがある。

あなたにもある。

あなたの一番大事な人も、

一番嫌っている誰かも、それを持っている。

誰もそれを感じることはできない。

ただ、それがあることを知っているだけだ。

-「アーモンド」より引用

 

扁桃体(アーモンド)が人より小さく、怒りや恐怖を感じることができない16歳の高校生ユンジェ。ばあちゃんに「かわいい怪物」と呼ばれていたユンジェの前に、もう一人の怪物が現れる。怒りや恐怖心を体いっぱいに宿した怪物が。

人が感情的になるときというのは、いったいどんな時なのだろう。

人と違うという、ただそれだけで、人は恐怖におびえたり、怒ったりするだろうか。

人と違うということだけでは何かが傷つき、損なわれることはないはず。

では、どんな時に人は怒りと恐怖を感じ、感情的になるのだろう。

痛み、劣等感、寂しさ、蔑み、悪口…。それを受けた時、もしも感情がなかったら、その情景はどのように見えるのだろう。

怒りや恐怖を超えて、その人を理解することはできるのか。愛することはできるのか。

そんなことを思いながら、一気に読んだ本でした。

 

 

 

「セミ」ショーン・タン

ショーン・タンの5年ぶりの新作。

灰色のオフィスで17年間、

けっきん なし、ミス なし、しょうしん なし、いえ なし、そうべつかい なし、かんしゃ なしで働いたセミのおはなし。

セミはニンゲンじゃないから、ニンゲンのことを笑って森に帰ったけれど、私たちは…。

小説版「天気の子」

新海誠監督自身が執筆した映画「天気の子」のノベライズ版。

映画化された原作を読んだことはあっても、映画のノベライズ版を読んだことは今回が初めて。

映画を観てから読んでいるので、いろんなシーンが目に浮かび、やっぱり小説じゃなくて映画を観たくなります。

夏休みのお楽しみアニメのつもりで、小5の娘とその友達を連れて「天気の子」を観に行ったら、不覚にも泣いてしまいました。

映画の内容を話してしまうとネタバレにもなってしまうので言えないけれど、私はラストがとても好きです。今も心に残っています。

あとがきに「君の名は」が想定を超えるヒットをしてしまい、その時に「だいぶディスられた」新海監督が、「天気の子」を作る上で心に決めたことが書かれているのですが、

これが、ショーン・タンがインタビューで話していたこととつながって、同じ時期に同じようなメッセージを受け取ったことに、少し驚いています。

「僕が毎回驚かされることは、自分にとっても他人にとっても最良の作品というのは、実は一番奇妙で、個人的で、変わっていて、癖のあるものだということです。

それはいまだに驚くべきことですが、信じようと思っています。」ショーン・タン

「映画は正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことをー例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いをー語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。

教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。

それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。」新海誠

大ヒット作の次で、タイアップもたくさん、宣伝もバンバンされる中で、「天気の子」はそんなこととは関係なく、本当に新海誠監督の作りたいものを作ったのだと思いました。

そしてそれが私には心に響きました。

今回も音楽はRAD WINPSの野田洋次郎さん。

この機会にたくさんの歌を聴いてみました。

野田さんは詩人だなと思いました。

映画のラストに流れる歌。

君を大丈夫にしたいんじゃない

君にとっての 「大丈夫」になりたい

自分の思う通りで、大丈夫だから。

そんな気持ちで子どもたちの、家族のそばにいたい。そう思いました。

Amazonで買えます

138F1AAD-B34F-4FD5-A038-FA2F4EE338E1あかちゃんといっしょAmazon店に本を入れることにしました。

ずっとオリジナル商品だけをAmazonに入れて、本の扱いはしなかったのですが、お店に来られない方にも届けられた方がいいよなと思い、少しずつ登録を始めました。

今日はお店にあるモンテッソーリの本たちなどを登録してみました。棚にはモンテッソーリとシュタイナーとアドラーさんが並んでいます。いろいろな子育ての考え方を知って、いいとこどりして、自分のオリジナルの考えを作っていけたらいいんではないかなと思っています。

が、店長すべての本をちゃんと読んでません💦

全部読む前に子どもたち3人とも10歳を過ぎてしまいました(汗)

 

あかちゃんといっしょ(Maar)のAmazon店ラインナップはこちら。

https://www.amazon.co.jp/s?me=AA9DZ2ZO1BAGS&marketplaceID=A1VC38T7YXB528

本とオリジナル商品がまぜこぜになっちゃってますね💦

 

 

 

マールにある本「白エリと青エリ」

長男を仙台の高校に送り出し、若干放心気味の店長です。

しばらく売り切れていたのですが、無性にこの本が読みたくなり、ご近所版元のタバブックスさんに仕入れに走りました(笑)

どれもすべて名作ですが、一番読みたかったのは巻末の方にある「飛ぶな、猿」

読んで心が落ち着きました。

この春、親の手を離れていく子どもたち。その子どもたちを見守る大人のみなさんに読んでもらえたら…と思う本です。

タバブックスさんからは

「私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない」

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「「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。」

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の2冊も仕入れたので、ぜひ~。

 

【4月のマール】

営業日や時間が変わっています。

【営業日】

9日(火)11:00~16:00

10日(水) 13:00~16:00 (11時から手形アート貸し切り)

11日(木) 9:00~12:00 16:00~19:00

12日(金)9:00~12:00 15:00~19:00

16・17日(火・水)11:00~16:00

18日(木) 9:00~18:00

19日(金) 9:00~12:00 午後お休み

20日(土) 12:00~17:00

23日~25日(火・水・木)11:00~16:00

26日(金) 9:00~12:00 15:00~19:00

27日(土) 12:00~17:00

【お休み】

13・14・15日 (土)~(月)

21・22日 (日)(月)

28・29・30日(日)(月)(火) お休み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Life 作くすのきしげのり 絵松本春野 瑞雲舎

あるお店におばあさんが訪ねてくるところから始まる絵本。

それぞれの時間の流れの中で、人もお店もモノたちも、みんな生かされながら生きている。

マールも私も、実店舗を持たない「あかちゃんといっしょ」というネットショップも、

そこに関わってくれている人たちみんなに生かされながら、生きているのだなと。

マールは1歳1か月になりました。

あかちゃんだったらよちよちと1歩歩き出すくらいの時期でしょうか。

そこにずーっとあること。

扉を開けて入って来てくれた方と、置いてあるもの、会話、どんな形でもよいので、

何かを交わして行けたらと思っています。