ネットショップをやっていて思うこと

今日はネットショップで配送間違いをしてしまったお客さまに電話を2件。昨日の夜わかった時点でお詫びのメールを入れて、今日の午前中に電話をする。

いろいろ怒られてしまった時を想定して深呼吸し、心を落ち着かせて電話をする。起こしてしまったミスを説明して謝り、これからどうするかを話す。その道筋を立てて、一回頭の中でリハーサルする。電話をしている間はこちらの気持ちをフラットにして、お客さんの話を受け止めて、頭を下げる。わたしの心が感情でいっぱいにならないように、対応が終わったら、今日は1日ゆっくりしようなど、自分にお疲れさまをするものやことを用意しておく。

どうしてミスをしちゃったのか自分を責める気持ち。わたしじゃなくて夫のミスなんじゃないかと人のせいにしたくなる気持ち。せっかくの週末なのに…と残念な気持ち。いつかのようにものすごく責められるんじゃないかと怯える気持ち。

いろんな気持ちでいっぱいいっぱいだと、伝える相手のことがよく見えなくなる。そういう状態で電話をしてしまうと、こちらの伝えたいことは伝わらない。どころか、自分が何を伝えたいのかすらわからなくなる。

自分からかける電話はそれでもある程度自分で気持ちをコントロールしてからかけられるから大丈夫なのだけど、突然かかってくる電話に対応するのは難しい。それがものすごく怒っている電話だとなおさら。

完全なるいちゃもん電話の場合もあるし、こちらのミス(配送間違いや縫製不良など)の場合もある。こちらに非がないいちゃもん電話の場合でも、いきなり怒鳴られると心は萎縮して傷つく。またそういうことがあるかもしれないと、電話のベルが鳴るたびにドキドキする。

その昔、完全にキャパオーバーになり、お怒りの電話がたくさんかかってきたことがあった。その時はもう電話も見たくなくなって、しばらく電話代行を頼んだこともあったし、夫に代わってやってもらったこともあった。

でも、わたしが一切電話に出ないというわけにもいかないから、自分なりの方法を編み出すしかないと思って、いろいろ考えた。結果最初に書いたような手順を踏んでお話することが多い。

10年たってやっと最近思うのは、ミスはするものだということ。特に新しいことを始めると最初は必ずミスがある。今回もオリジナルのギフトボックスを作り、有料ギフトラッピングを始めた矢先のミスだった。

わたしは完璧な人間ではないからミスをする。それは仕方のないこと。しかしそのミスでお客さんに残念な思いをさせてしまったことも事実。だからそれに対しては誠意を尽くさなければいけない。お客さんに納得してもらえる方法で謝罪をし、修正をすることが最優先だから、そうできるように全力で自分の気持ちも整える。

いきなりやってくるいちゃもん電話については、世の中には本当にいろいろな人がいる。対応できない線を超えたいちゃもんについては対応しない。その人に応えようとする必要はない。ちゃんとネットショップの問い合わせ担当者という鎧をつけるの大事。

今日の2件の電話は、こちらのミスにもかかわらず、とても優しく受け答えしていただき、すごくありがたかった。きっと今までもそういう受け答えをしてくれたお客さんの方がすごく多い。だけど、電話が鳴ってまず浮かぶのは怒られたらどうしようという気持ちだ。

わたしの場合は自分のミスも含めての仕事上の電話での体験だけど、これがもし、1番自分の居場所と感じられるはずの家庭で、1番長く時間を過ごす学校で、電話という間接的なツールではなく、面と向かっていきなり怒鳴られたり叩かれたりしたら、どれだけ衝撃が大きいだろう。たとえ自分のミスだとしても、ものすごく怒鳴られたらつらい。ミスより自分自身がダメ人間に思えてくるし、感情と対応を切り離せない。

そう思うとやっぱり教育だとかしつけだとか、ダメな部分を正すという目的であっても、一方的に怒鳴ったり全人格を否定するような暴言や暴力はたったの1回でもやってはいけないなと思う。

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新たに始めてみよう

コロナ感染者が1,000人~2,000人に増え、緊急事態宣言も出された1月始めから、マールはお店を予約制にした。

今店に来るのはオフラインの韓国語レッスンに来てくれる人だけだ。お店を閉めたので、お店に行くことはほとんどなく、自宅でネットショップのPC内の仕事をしている。

もともとお店を開いたのはお客さんの顔が見たかったからだ。実際に手に取る姿を見てみたかった。10年ネットショップをやってきても、買ってくれるお客さんの顔はほとんど見たことがなかったから。

自分たちの作っているオリジナルの商品や、自分のいいと思う本を手渡しで来て、いろんな話ができる空間がお店だったのだけれど、お店を閉めた今、その分ここを開けようとnoteに毎日ものを書き始めた。

ここで書いていることはほとんど自分のためのエールみたいになっている。好きなものや考えたことなどをあとで自分が読み返せるように記録している。今日は立春なので、これからここで始めたいことを書いておこうと思う。

自分に向けて、自分が元気のない時や、ふと何か読みたくなった時に読めるように、自分の好きなものやこと、その時考えたことなどを記録しておく空間として書いていく、というのは1ヶ月ほど前から始めたこと。

もうひとつ、私がお店に来てくれる人に手に取ってもらえたらうれしいなと思って並べてきた本について。今もお店にあるけれど、お店は閉まっていて手に取ることができない本たち。その本の紹介をここでしていこうと思う。できれば1日1冊。

前もInstagramだとか、Twitter、blogでやっては続かなかったことを改めてやってみようと。お店に来てもらうためではなくて、ただただ、やってみることができるかな。

お店を閉めて、自宅にいる時間が増えて、ちょっとぼんやりしてしまった今日の午後、ふと思ったこと。

立春

今日は立春。偶然、昨日メールに不具合があり、1月末で契約が切れたサーバーと契約続行しているサーバーとのメールの切り替えがうまくいっていないことが判明。再度切り替えをしている間に、たまりにたまっていたメールを思い切り削除した。すっきりして立春が迎えられてよかった!がんばった→自分

あけましておめでとう

今日は旧暦のお正月。韓国のお正月はこちらが本番。中国の春節もこれにあたります。

日本のお正月は引っ越しと高校サッカーがあって忙しく、新年の抱負なぞ考えている暇がなかったので、旧暦のお正月にそれを考えようと思ったのだけど、今日もなんやかやと忙しく1日が過ぎてしまいました。

今日は次男の高校進学準備にどうしても必要なことがあり銀座へ。久しぶりに電車に乗って外出しました。

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歌舞伎座。その昔母と何度か行ったことがあります。以前のケアマネさんに目標として、また歌舞伎を観に行くと言っていたことを思い出しました。一緒に行けたらなと思うけれど、今連れて行ったら途中でもう家に帰りたいと言い出すような気がして心配💦

昨日は父の訪問看護の先生の日。始めの頃より表情も柔らかく、先生が帰るときに見送りに立つ父を見て、本当に良くなったなぁと。ケアマネさんもだけど、この訪問看護の先生も出会えて良かった方の1人。

具体的でわかりやすい説明と、人に対して威圧感を与えずにきちんと接してくれるところがすごいなといつも思います。お医者さんはいるだけで威圧感が出てしまう存在ということをわかっていて、そうならないようにしっかり引き算して接してくれているのがわかり、そういう細かい部分がプロなのだなぁと思いました。

今わたしが通っている歯医者さんもそう。職種関係なく、プロの仕事だなぁと思う人があちこちにいるんだということがこの歳になってやっとわかってきたような気がします。

そうそう、昨日はひとつうれしいことがあって。両親の晩ごはんの支度をしていたら、父が台所に来て、ごはんやおかず、お味噌汁がのったお盆を運んでくれたのです。そんなこと今まで1度もなかったので、「持ってってくれるの⁈ありがとう〜!」って、思い切り大きなリアクションで感謝を伝えました。ちょっと疲れてたので、本当にうれしかった。

さて今日はというと、晩ごはんを食べた後はNetflixで韓国映画を観て今に至ります。今日見た韓国映画は「いつか家族に」最初はほのぼのしたコメディっぽかったのが、どんどんそうではなくなっていき…。最後の方は思いもよらない展開となり、なんとも言えない気持ちになりました。最後は現実なのか夢なのか…。現実だったらいいな。

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こうして2021年旧正月の元旦が過ぎていきます。

새해복 많이 받으세요〜

新年快楽〜

「中央駅」キム・へジン著 生田美保訳 彩流社

読み終わって、不思議な気持ちになっている。

※本の内容を書いているので、あらすじもわかってしまうかもしれません。これから読む人は読み終わってから見てください。

最初にカバンを持って中央駅に来た男には、それほどの悲壮感も絶望もないように見えた。実際には職も住まいもなくし、わずかな所持金だけで駅で寝泊まりしようとしているのだから、追い詰められてはいたはずなのに。そして中央駅で女に出会った時、唯一持っていたカバンもとられ、女だけが残る。

韓国に中央駅なんてあったかな?ホームレスと聞いて思い出すのはソウル駅だった。「椿の花咲く頃」でドンベクと母親がどうにもならなくなって一晩過ごした場所もソウル駅だったように思う。訳者あとがきでキム・ヘジンさんがソウル駅のホームレス支援センターに勤める友人のもとでボランティアをしていたことを知る。ソウル駅は韓国と日本を行ったり来たりする時によく行った。噴水があって、何かしらプラカードを持って訴えている人や、カセットテープを売るために音楽をガンガン鳴らしていたり、救世軍が立っていたり。騒々しい場所。あそこで寝泊まりするのは、かなり厳しそうだ。

日本でホームレスと言って思い出すのは新宿駅だ。仕事帰り、せかせかと歩く地下道にホームレスが段ボールのうちを作っていたのはもう30年くらい前のことか。遠くからでも臭ってきて、男か女か、若者が老人か見分けがつかない人たち。今の新宿駅にホームレスの居場所はない。

所持金も全部取られて、広場で女と待ち合わせ、時間つぶしにゴミを拾って歩く男は、いらいらしてけんかしたりもするが、それほど絶望やどん底にいるような感じがしなかった。

男でしかなく、女でしかなく、家もお金もなく、過去も未来もない、というのはそれほど苦しいことでもないような、そんな気さえしてきていた。

それが男は女と安らかに寝られる場所を確保するために他人の安住の地を奪う仕事を始め、そのお金で女は何もない四角い部屋に入る。それからの物語はすさまじく苦しくなった。

いろんなひとやもの、町と間接的につながって見せものになる広場と、全てを遮断して男と女だけの場所を作る部屋。2人ともその部屋が苦しくて広場に来たのではなかったか。

自分の身分も売って女を守ろうとした直後にまた広場で身ぐるみ剥がされる男。体を巣食った病から逃れられない女。男には自分を守れないことを、女はよく知っているように思えた。

きちんと名前で描かれる支援センターのカンチーム長や古物屋で働くソク氏、隣部屋の少女ソラとは違い、男と女は最後まで名前がない。いや、女の名前を呼ぶ場面があったから、男は女の名前を知っているが、私たちにはわからない。

中央駅で身ぐるみ剥がれてただ人間という動物になっている人たち。毛もなく筋力も弱く、飛べない、動物界では最下層に位置しそうな人間という動物。とことん堕ちていき、人間のルールから自由にはなったが動物であり肉体があることからは逃れられない人たち。

女を失った男は自分の生存競争に出かけていく。そこは再開発で立ち退きが決まった場所だ。立ち退かせる側と立ち退かない側との闘い。だが、立ち退かせてその場所を手に入れるのは実際に闘った人たちではない。

「こびとが打ち上げた小さなボール」を思い出す。

偶然みたこの動画を思い出す。ソウル最後のスラム街(Bloomberg) – Yahoo!ニュース「私は行く場所がなく、32年もこの悲惨な状況で暮らしています」。ベニヤ板と防水シートの小屋が並ぶソウル最後のスラム街、九龍news.yahoo.co.jp

きらびやかな超高層ビル群もスラム街もホームレスも結局は椅子取りゲームだ。どれだけ蹴散らかして自分の椅子を確保できるか。男は生きようとすれば過酷なそのゲームから逃れられない。逃れたいと思っているのに逃れられない。それはわたしもそうなのかもしれない。だから、中央駅にいた人々には絶望やどん底を感じなかったのもしれない。

母の病院

在宅看護での母の血液検査の数値が悪く、心配なこともあったため、大きな病院でさらに採血とCTを撮ることになった。介護タクシーを頼み、車椅子を借りて朝からあっち行ったりこっち行ったり。

最初は「ごめんね。いろいろありがとうね。」と朗らかだった母だが、時間が経つにつれ不機嫌になる。「まだなの?」「わたしだったら、まだなのか、あとどれくらいなのか聞いてくるのに!」「もう、いや。うちに帰りたい。」を延々と繰り返す。なんなら、検査を入れたわたしが悪いような、意地悪してここに連れてきたような言われよう。

母はこだわりが強い。帰りたいとなったら、ずっと帰りたいし、呼ばれるものがなかなか呼ばれないのがどうしても我慢ならない。「わがまま言ってごめんなさい。よろしくね。」と、言葉は丁寧だが、いついかなる時でも、自分の要求が通るまでこっちの都合関係なく何度も言われる。

これも認知症なのか、老化現象なのか、もともとの性格なのかわからない。考えてみたら、母がもともとどんな性格なのか、実はよくわかっていなかったりする。

診察後、「CTの結果は2度手間になりますが、後日ご家族の方に来てもらいますか?」の問いに「早く帰りたいのでそうしてください。わたしは行かない。もう帰りたい。」と即答。わたしの都合を聞かないの?と思うけど、この後結果聞くまで「まだなの?」攻撃を受けることを考えたら、別日に1人で来た方が楽。

その後も、トイレに行くのに「あなたには迷惑かけないから。ついてこないで!」と大声を出しつつ、車椅子で勝手に行ってしまい、ドアの前に車椅子を乗り捨てる。会計している間に、またまた勝手に出口まで行ってしまい、探しまわっていると「こっち、こっち!」と手を振る。

もし大変な病気だったら…と、できるだけ悪くならないうちに…と、いろいろ手配していた時は母への温かい気持ちがあふれていたが、もう2度と連れて行きたくないと思う。「なんでそうやって自分勝手なことばっかりするの⁈」と病院のロビーで怒ってしまい、帰りの介護タクシーではお互い無言になってしまった。その後「薬はまだ買ってないの?晩ごはんはよろしくね。」と言われて、わたしはお手伝いさん⁈と思ってしまってモヤモヤ。

でも今日はわたしよりもずっと心広く、優しい気持ちで介護している方や、わかりやすく老人介護の実態について描いている方のnoteを読んで心を落ち着かせることができた。

わたしも親の歳になったら、こうやって子どもたちを困らせてしまうのか…と不安になるのだけど、なるべくそうならないようにして行きたいなと思う。

「菜食主義者」ハン・ガン著 きむ・ふな訳 CUON

今年お正月に読もうとうちに持って帰っていた本。ハン・ガンさんの本は「少年が来る」「すべての 白いものたちの」を読んでいて、私が読む3作目の作品だ。【新刊】少年が来る  ハン・ガン著  井手俊作訳  CUON | マール&あかちゃんといっしょ powered by BASE『菜食主義者』でマン・ブッカー国際賞に輝いた、ハン・ガン渾身の物語あの光州で起きた民主化運動の鎮魂曲光州事件から約三十五年maar2017.thebase.in2,750円マール&あかちゃんといっしょで購入する

年末にあったKBOOKフェスティバルのトークイベントも見たし、他の韓国文学の著者よりもなじみがあった。そして、時々話に出ていた「菜食主義者」についても、なんとなく欧米のベジタリアンのモデルをイメージして、こんな本だろう、あんな話だろうと想像していた。イベントレポ:ハン・ガンさんに聞く | K-BOOKフェスティバル2020 in Japan 公式サイトハン・ガンさんは、『菜食主義者』や『ギリシャ語の時間』などの作品で日本にもファンの多い作家です。そのハン・ガンk-bookfes.comイベントレポ:「ハン・ガン作品を語る」翻訳者座談会 | K-BOOKフェスティバル2020 in Japan 公式サイト『菜食主義者』でマン・ブッカー国際賞を受賞したハン・ガンさんの作品の翻訳者4人が、作品の魅力や訳す際に苦労したk-bookfes.com

なので、お昼の時間になんとなく、読んでみるかな…と軽い気持ちで手に取った。そうしたら、想像とは全然違った。完全に、まったく想像を超えた物語だった。シンプルなブックデザインからは全然考えもつかないほど、生々しかった。

読み終わると「菜食主義者」というタイトルが、恐ろしいほど胸に迫ってくる。いや、もう菜食主義者ですらないその終わり方に呆然とする。やわらかな声で、おっとりと語るあのハン・ガンさんのトークイベントが遠い昔のようだ。

でも、そういえば私は「少年が来る」を、百書店大賞にも選んだし、ここ最近で一番印象に残る本だと話してきたけれど、再読することが今もできないでいる。ハン・ガンさんの書くものは、そうだった。そういうものだった。と、改めて思い起こされるような、そんな本だった。百書店100shoten.com菜食主義者 ハン・ガン著 きむ ふな訳 CUON | マール&あかちゃんといっしょ powered by BASE「新しい韓国文学シリーズ」第1作としてお届けするのは、韓国で最も権威ある文学賞といわれている李箱(イ・サン)文学賞を受賞しmaar2017.thebase.in2,420円マール&あかちゃんといっしょで購入する

「アライバル」 ショーン・タン 河出書房新社

いつものように思い浮かんだことを書こうと、朝お風呂の中でぼんやりしていたんだけれど、なにも浮かんでこない。書きたいこともないし、自分の中からなんの言葉も出てこない。いつもなら、思い浮かぶ言葉で頭の中がいっぱいで、だから書きたくなるのに、それもなくて、自分が無人島にぽつねんと座っているような気がする。

たまにそんな時がある。

そんな時に開きたくなるのがこの本。【新刊】アライバル ショーン・タン 河出書房新社 | マール&あかちゃんといっしょ powered by BASE言葉はありません。見ていると、ひきこ

「しばてん」絵と文 田島征三 偕成社

わたしは読み聞かせがどうもなじまない。どうしてなのだろう。いい取り組みでもあるし、読み聞かせてもらう経験をしたときもよかったのに。

考えてみた。そうしたら、「しばてん」が思い浮かんで、マールの棚から手に取った。わたしは「しばてん」を読み聞かせられない。自分がこの中に入ってしまう。さっきも読みながら絵本の中に入ってしまった。

マールのネットショップでこの本を紹介するところには、出版社の紹介文を書いている。そこに対象年齢3歳からと書いてあるが、この本をぜひ読んでもらいたいのは、大人たちだ。それぞれが手に取って、静かに読んでみてほしい。

最後まで読んで、ざわざわした心を胸に留めておいてほしい。何度も、ことあるごとに手に取ってもらいたいから、買って手元に置いておいてもらいたい。【古本美品】しばてん 絵

何度も仕切り直す

お店を閉めてから、閉めていても開けていられるようにしたいと思い、noteの更新頻度をあげた。そうしたら毎日何かしら思うことがあって、毎日それをつらつらと書くようになった。

そしてまた本の紹介も始めようと思い立った。自分が歩くための「書く」から、お店を開けておくための「書く」へ。

毎日1冊読んで書くをやろうとしたら、圧倒的に時間が足りなかった。他の生活を圧迫したので、仕切り直すことにした。→今ここ

今までも何度も仕切り直しをしてきた。サイズを小さくしたり、手がけるものの個数を減らしたりはしたけれど、自分で決めて始めたことは割とずっと続けている。仕切り直せばできるからやりたい。

マールネットショップから本の紹介は毎日するけれど、毎日1冊本を読んで感想を書くのはやめる。毎日にしない。読み終わったら、書く。

目の前の小さな設計図から、やりたくてやっていることをみんな集めて、もう少し大きな設計図を書こう。絵を描いてみよう。